蝶々


するすると逃げて行く。どれだけ追い掛けても追い詰めても捕まえられない。

若しくは。



「総悟ォ」
「何ですかィ土方さん」
「何ですかィじゃねぇよ、お前また取り逃がしたそうじゃねぇか」
「はぁ、すいやせんどうにも逃げ足の早い奴で…流石逃げの小太郎の異名は伊達じゃありやせんや」
「…お前なぁ」
「はい?」
「真面目に捕まえる気あんのか?」
「…俺はいつだって真面目ですぜィ」

あぁ、そうだよ。手抜きなんて一切してねぇんだ。剣を抜く時だって銃ブッ放す時だって、追い詰めて照準定めて確実に捕まえられるように。

そうしてんのに。

アイツは逃げて行くんだ。指の間をするりと抜けて。

「じゃあお前ともあろう者が、何で桂一人にそんな手こずってんだ」
「だから~、逃げるのが上手いんでしょうよ。いつもあと一歩なんでィ」
「…お前がやらねーのなら俺がやる…」
「それはなしでさァ」
「何がなしなんだ、お前が仕留めるって言ったから任せてんだぞ」
「桂には借りがあるんでさァ」
「借りィ?」
「そ。だから土方さんは引っ込んでて下さい」
「何だよ、借りって」
「秘密でさァ」
「てめっ」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ土方さんを追い出して、俺は一息ついた。
まぁ土方さんが怒るのも無理はない、俺は毎回「今日こそ桂をとっ捕まえて帰ってきやす」と言って出て行って、銃弾と時間を無駄にして帰って来るのだから。
でも俺は幕府に仕えてんじゃないから罪悪感もないし、ほんとは攘夷志士捕まえる事なんてどうでもいい、上から命令されるからやってるだけだ。
「人一人に大層ご執心な事だねィ」
あー下らない。下らないの。俺は呟いて寝ころんだ。でも眠くないのに寝られる訳がなく、このまま横になってると頭が痛くなりそうだったのでとりあえず起きた。どうしよう、やる事がねーな。いや近藤さんとか土方さんは結構忙しそうだけどさ、手伝うのもめんどいしアホな俺には分からなさそうだし。
俺はふらりと外に出た。

外は驚く程暑く、熱気で空気が歪んで見えた。思わず上着を脱ぐ。土方さんはこのクソ暑い中よく長袖着てられるもんだぜ。あ、でも土方さんが弱った隙に副長の座を狙うってのも有りかもしれねーや。
それにしてもほんと暑い。
「アイス食おっかなー」
目に付いた駄菓子屋に入る。中は冷房が効いていてひんやりと涼しい。独特の薄暗さと埃っぽさ、雑然とした店内。

(懐かしいなぁ)

本来あまり大人が入る場所じゃないんだろうけど。俺には結構居心地がいい。昔馴染みの駄菓子屋。どこに何があるかも全部知っていて、レジの婆さんとも顔見知りで、婆さんはガキのお菓子を暗算しながら袋にポイポイ入れていって、でもたまに間違ってるから自分でもちゃんと計算しとかなきゃならないんだ。
俺はずっと値段の変わらない棒アイスを1つ取ってレジに持って行った。

「これちょーだい」
「はい、ありがと」

変わらない味。
変わらない暑さ。
昔にタイムスリップしたような錯覚を覚えた、その時。

店の外をあの長髪が通った。

俺は思わず飛び出した。入り口でお菓子の当たり外れを一生懸命確かめているガキを蹴飛ばしそうになったが何とか避けた。
「カーツラぁぁぁ!!」
アイツはくるりと振り向いて俺を見るとダッシュで逃げ出す、それを俺は追い掛ける、いつも通りのパターン。
だがいつもは見失うのに今日は違った。
袋小路に追い詰めたのだ。
クソ暑い中で追いかけっこをしたせいで汗だくだ、イライラする。とっととケリつけてやらァ。そう思った時、ふらりと出てきたせいで銃も剣も忘れたのに気が付いた。

あぁ、くっそー。何でこうなるんでィ。逃がしたとなればまた土方さんに怒られる。いや別に今日はたまたま見つけたんだから黙ってりゃバレないのか。じゃあ最初から追い掛けるんじゃなかった。あーあ。
「ったく、どうしてくれんだアイス溶けちまったじゃねーか」
「俺のせいか」
「それ以外何があるってんでィ」
俺は指がベトベトになる前にアイスを投げ捨てた。アイスは地面に着いた途端、哀れにもただの水。


(…あ)


突然鮮烈に昔の記憶が甦って来た。

あの日もこんな暑い日で砂埃が立っていて、俺は最後のお小遣いでアイスを買ったんだっけ。で、店を出たところで人にぶつかった。まだ殆ど食べてなかったのにアイスは地面に落ちてしまい、俺は悔しくて自分が前を見てなかったのなんて棚に上げてわぁわぁ怒った。俺はその頃から口が悪いガキだったからさぞ罵詈雑言を吐いただろう、でもその人は優しく俺の頭を撫でて「済まなかったな」と一言言って新しいアイスを買ってくれた。俺は流石に言い過ぎたと思って、でも謝れなくて「ありがとう」とだけ言った。そしたらその人は笑ってくれた。

たったそれだけの事なんだけど。
俺とこの人の繋がりは。

俺の周りは「正しい大人」ばっかりで俺の話を聞いてくれる人なんて一人もいなくて、でも皆俺たちからすれば間違っていた。
でもあの人は俺の話を聞いてくれて、謝ってくれて、頭を撫でてくれて、笑ってくれて。そんな人は初めてだった。だからそれがどれだけ嬉しかったかなんて、他人には分からないだろうし分かち合うつもりもない。ただあの人は俺にとって唯一の「正しい大人」だったのだ。
それが借り。
返せない借り。

本当はどこかで彼が捕まらない事を願っていたのかもしれない。自ら彼を追い掛けるのを志願したのは、自分の知らない所で彼が捕まるのなんて耐えられないから。彼の名前を呼ぶのは彼を見つけたからではなく、「見つけた」という彼への合図であり、足を狙うのは生け捕りにする為じゃなく殺さない為。彼にギリギリまで逃げ延びるチャンスを与える為。
この長い追いかけっこを俺は終わらせたくないのだ。例え他人がその理由を笑い飛ばそうとも。

俺は、ガキだからな。
楽しい時間は長い方が良い。

とは言え。
「さて、どうしましょうかねィ」
銃も剣もなしに人を一人連れ帰るには。
意識がある状態で黙ってついてくる訳がないし、意識の飛んだ人間を自分一人で引き摺って帰るのは相当重労働だ。ていうか無理、やる気ねぇ。

めんどくせぇなー、と思ってたらそんな俺の顔とアイスを見比べてあいつはクスリと笑った。
「何でィ俺の顔に何かついてるか?」
「いや…昔、似たような事があったのを思い出してな…」
「…え」
「お前、昔駄菓子屋の前でアイスを落として泣いていた童だろう?」
「…覚えてたのかィ」
「お前みたいな強烈な童、忘れられる訳なかろう」
「悪かったな」
「口の悪さも相変わらずだ」
そう言ってこの人はまたクスリと笑った。ただ、口元だけを上げて目だけは油断なく光らせている。あの時接した手と頭はとうに離れ、今は深い溝が俺達を分けているのを感じた。その溝を作ったのは別に恩義もないし尊敬もしない幕府上層部と逆らえない時代の流れ。
あぁ、ほんとに下らねーや。
俺は一歩前に進んだ。
彼は動かない。
俺は更に近付いた。
少しでもあの日に近付けばいいと、溝が埋まればいいと。影の黒さも地面の白さも陽の角度でさえもあの日と同じ気がした。

変わったのは何だろうか。

彼は変わらない。
俺も変わらない。

何が変わったんだろう。


「…逃げて下せぇ」

言葉が、口をついて出た。
目の前の彼はびっくりしている、そりゃあそうだろう。
「俺にはこのままあんたを捕まえるなんて出来ねーや」
「…どういう事だ」
「だってあんた俺の話聞いてくれたじゃないですか。俺をサシで認めてくれたじゃないですか」
「……」
「俺は、あんたが好きなんでさァ」

俺は彼をじっと見つめた。昔仰いだ彼は今同じ目線にいる。
あぁそうだ本当は何も変わってなどいないのだろう、ただ時が流れただけで。

「…だが、俺を捕まえるのもお前の仕事の内なんだろう」
「いや、そうなんだけどね、今日手ぶらで来ちゃったから」
どうせ何にも出来ないんでさァ。
そう言って頭をかくと、彼を纏う雰囲気はやっと警戒心を解いた。
「じゃあ、俺達は無駄な追いかけっこをしていた訳だ」
「全く」
「汗をかいて損をしたな」
「そうでもないさ」
「そうか?」
「あんたに会えたからな」
指名手配犯としてではなく旧知として、でも決して友達じゃなくて。
「見逃すのは今回だけでさァ」
「肝に銘じておこう」
「あ、帰る前に汗かいたからアイス奢れよ」
「…ほんとに相変わらずだな」
「あと、今日は逃がすけどあんたは絶対俺が捕まえるからな。他の奴に捕まったら承知しねーぞ」
「フン、今日みたいな幸運が二度あると思うなよ」
「幸運はてめーでィ」
「分かった分かった。で、お前が食べてたのはどのアイスだ?確かあの一番安い」
「いやいやあの横の高いやつでさァ」
「嘘つけ」
「ちっ…しょうがねーからその棒アイスで我慢してやらァ」
「ふてぶてしい奴だ」
「へへっ奢って貰ったものは旨いねぇ」
「それは良かった。ところで今更だが今日は非番なのか?」
「………」
「………」
「……やっべー土方さんに怒られる」
「早く帰った方がいいんじゃないか」
「そうします」
「…オイ」
「何でィ」
振り向くと真剣な双眸がこちらを見つめていた。何だろうこの感じ。背中がすっと冷えた。
「俺にはやらなければならない事がある。それは残念ながら今の御上の考え方にはそぐわない、だからお前は俺を追い掛けるし俺は逃げる。幕府などにそう簡単には捕まってやるつもりはさらさらないが、」

「もし捕まる時はお前がいい」

あ、懐かしい笑顔。
ぽん。
と、昔したように俺の頭を撫でて。
懐かしい仕草で。
あの人は去って行った。

「…そりゃありがてぇこって」
俺は呆気に取られて何時の間にかまたアイスを足下に落としていた。
高いのにしなくて良かったと思った。


そうして、明日になれば俺はきっとまた踊る黒髪を追い掛ける。
今日だけは。
今日くらいは。


俺だけのあの人。
籠の中の蝶々。






沖田君が「好き」って言ってるのは恋愛じゃなくて、自分より大きな存在に対する憧れみたいなそんな感じです。「籠の中の蝶々」は桂を閉じ込めるとかいう意味ではなく、沖田と言う籠の中の綺麗な思い出という意味。あと今日だけは桂を捕まえたという意味。