空蝉


乾いた咳の音が静かな部屋にやけに響く。

合わせるように、連日の猛暑に耐えかねた庭の木から枯れ葉がはらりと落ちた。まるで一枚の絵のようだ、酷く滑稽。それを嘲笑う力すら、もう俺には残されていない。弱々しく口元を歪めるだけ。嗚呼、こんな自分、浅ましく情けない。嘲笑ったのは世界か自分か。

「何か、面白いものでも見つけたか」

襖の開くのと同時に声が降ってくる。桂は目敏い。

「…別に。ただ葉っぱが一枚落ちただけでさァ」
「そうか。感傷的だな」

そう言って、桂は俺の枕元にお盆をコトリと置いた。見なくても分かる、お盆の上には和紙に乗せた粉薬と白湯。俺は毎度の事ながら眉を顰める。

「苦いのは嫌いでさァ」
「我が儘を言うな」

何時ものやり取り。
これをあと何度繰り返せるだろう?
考えるのも空恐ろしい。俺達二人共が、そう遠くない未来に怯え眼を逸らし耳を塞ぎ、日常を繰り返す事で平静を保とうと浅ましい努力をしている。
肋の浮き出た日々軽くなってゆく痩躯、骨ばった手足、ものを受け付けない胃。
全てに見ない振りをして、喉に効かない粉薬を流し込む。
桂も気付いているのだろう、俺を支えてくれる腕は微かに震えていた。

生暖かくゆっくり流れる、まるで粘液のようなどろどろした時間の流れ。ある種幸せと呼べるかもしれないが、この紛い物の幸せは永遠には続かない。そう思うと、急に全てが愛しくなった。

「…桂さん、俺、あんたに感謝してる」
「…何だ藪から棒に…」
「俺、死にたくねェや」
「…うん」
「でも死ぬんだ」
「…死なない。お前は死なない」
「桂さん。見捨てられた俺をあの小屋から連れ出してくれて、感染承知で世話してくれて、俺は自分が死ぬ前になってやっと、やっと」
「もう言うな…!」

「やっとひとをすきになった」

ぼた、と熱いものが自分の手の甲に落ちるのを感じた。俺は今になって初めて死というものを朧気ながら自覚し、怖くなったのだ。血の渦巻く肺や衰えてゆく躯中の筋肉は、確実に自分の鼓動を弱めていく。
そうして、もうあんたに会えなくなる。
そう思うと、病名を告げられた時も遠からず死ぬと知った時も見捨てられた時も流れなかった涙は、眼という亀裂から流れるように、ただ静かに零れ落ちて行った。


夏だというのに冷え切っている俺の躯が、突然ふわりと暖かさに包まれた。頬にさらさらの黒髪の感触。

「…桂さん、あんたが泣かないで下せェ」
「お前だって、泣いているじゃないか…俺が泣いて何が悪い」
「あんたが泣くとこ、初めて見やした」
「うるさい。お前につられたんだ」
「はは…すいやせんね」

から、と笑う。
乾いた骨が躯の中で響き合う様だった。
俺はもうスカスカなのかもしれない。
縁側の方を見ると、庭は西日が差し込み、オレンジ色に染め上げられていた。(ひぐらし)が鳴いている。俺と同じ、余命僅かであろう蜩。蝉が鳴くと暑く感じるのは俺だけだろうか。この晩夏の暑さに、内側からドロドロに溶けていきそうだ。

(お前達は己の死期を知っているのか)
(知って尚必死に生きているのか?)

「あまり起きていると身体に障る。もう休んだ方がいい」
「…桂さん。お休みのキス」
「仕様のない子供だ」

そう言いながら、クスリと笑い唇にキスを落としてくれる。
躊躇いもなく。
俺はそれを享受しながら、既に腐り始めた心に気付かれまいと蓋をする。

(ねェ、あんたも一緒に死にましょうよ)

だなんて。
絶対に言わない。


どくりと、肺の奥で血液が音を立てて逆流するのを感じた。


八月も、もう終わりだ。