呼吸を忘れた
先輩が少しでも私の視界に入ったその瞬間から、私の眼は先輩を映す以外の仕事を全て放棄する。
耳も、先輩の発する言葉以外殆ど入って来ない。休み時間や食堂でご飯を食べている時など、先輩の姿がちらりとでも見えたら私はもうそっちに意識を攫われ、気付いたら滝ちゃんが怒っていたりする。いくら話し掛けても無視していたらしい。私はごめんね、と謝りまた先輩に意識を向ける。
最近では慣れて来たらしく私がぼうっと先輩を見つめ出したらそのまま放っておいてくれるようになった。
こっそり離れて見つめている分には全く構わないのだが、廊下ですれ違う時などは何故だか逆に顔も上げられなくなる。元来感情が顔に出ない質なので恋する乙女のように真っ赤になったりはしないのだが、それでも心臓はドキドキ煩く鳴るし胸は苦しくなる。身体も固まる。あの人は私の自由を奪っていく。
今日も黙ってすれ違おうとしたら、急に向こうから声をかけて来た。
「綾部」
聞き間違いではない。
先輩は確かに私の名前を呼んだ。それにここには私と先輩の二人しかいない。
先輩は何故私の名前を知っているのだろう。嗚呼、心拍数が上がる。
私は動かない首を何とか回して先輩を見上げた。先輩はいつも私がしているように、私をじっと見つめる。
目と目が合ったのは初めてだ。
ドクンと心臓が揺れた。
「いつも俺を見てるよね。何で?」
何で、ってそんなの。決まってるじゃないですか。
先輩は笑っている。先輩は知っている。
私は口を動かそうとしたが、空気が鳴っただけで声は出なかった。金縛りってこんな感じなのかもしれない、と思った。意識はこんなにもはっきりとしているのに、指の一本も動かせない。
あなたに見つめられたら、私は。
(息も出来ない!)
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