夜叉は泣くか
夜叉、だって。
誰だろうそんなこと言ったのは。
どうでもいいし忘れてしまった、だってそれは事実ではないもの。先輩は名前に夜叉が住めど全く冷徹ではなかった。それどころか優しかったと言える。本当だよ、あまり知られてはいないけれど。地獄と言われた体育委員会のロードワーク、先輩が僕らに気を遣っていなければ一年生だった僕らはたちまち置いて行かれ裏々山で道に迷っていただろう。ありがとうございますと言えば何でもないと言った風にそっぽを向かれた。先輩は確かにすぐ自慢話ばかりしたがるけれど、こちらから褒めれば赤くなって黙ってしまう可愛いひとだったのだ。
それにあの走り込みの後で尚戦輪の練習に励んでいたのを知っている。先輩は天才的な努力家だった。一日休めば、取り戻すのに三日かかるから。そう言って体調が悪かろうと何だろうと走っていた。肩で息をしながら、こんなのは何でもないと言った。先輩は意地っ張りだと思ったのを覚えているが、今思えば、それはプライドを守る為だけではなく僕らを安心させる為でもあったのだろう。先輩はいつだって僕らに優しかった。
だから。
だから僕は全身から血を流しながらもまだ先輩が僕に刀の切っ先を向けているという事実を認められないでいる。
いくら僕が学園で剣の修業を積んだからと言って、卒業したばかりの僕と三年間プロとして実戦経験を重ねた先輩とでは天と地程の差がある。もとより先輩の剣には一分の隙も躊躇いもなく、僕が大好きな先輩に剣を向けられるはずもなかった。プロになれば。プロになれば、あんなに仲の良かった同級生たちと殺し合うこともあるかもしれないと。そんなのは分かっていたことだ。いや、分かっていたつもりだ。でも僕は全然分かっていなかった。そうか、こういうことだったのか。全然駄目だ。立ち上がることも出来やしない。こんなんじゃ、どうせ僕なんてすぐ死んでいただろう。馬鹿だ。馬鹿だな。
たった三年、されど三年。
月日は先輩を本当に夜叉に変えてしまっのか。完璧なまでの殺気が、昔と同じ真っすぐな眼に宿っていた。
「先、輩」
もう腕も足も動かないので、口だけを何とか動かして声を出した。自分の声は掠れてしまって少しおかしかった。先輩の動きがぴた、と止まる。
嘘でしょう。嘘だと言ってよ。先輩は夜叉なんかじゃないよ。誰だか忘れたけどあいつは先輩のことなんか何にも知らないくせに勝手なこと言ってただけなんだ。
「すまない、金吾」
先輩は少し低くなった声で答えた。用意された台詞を読んだような言い方だった。そうして刀をゆっくりと振り上げる。ゆっくりと見えたのは僕だけかも知れない。
きらり、と光ったのは刀じゃなかった。
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