雪とおとこ




その日は酷く白かった。
辺り一面雪がちらちらと舞い、とても静かで、さくさくと雪を踏む音だけが俺の耳に響いた。きっとそこで幼い数年間を過ごしたのだろう、今でも寒さに強い俺はその日を特別寒いとは思わなかったが、俺の手を引き前を歩く男の鼻は真っ赤で息は白く凍っていた。ちくしょう、寒いな、と男が呟いたのを覚えている。しかし彼は大人しい俺に優しかった、途中に寄った宿屋で温かい白湯を貰って来てくれた。




「それがここに来る前の記憶の全てです。あとは覚えていません。」
「きっと北国の生まれなんだね。」

少し前から足繁くここに通う、すっかり馴染み客と呼べるだろう綾部喜八郎という男はそう言って眼を細めた。彼はひとを慈しむ表情がとても上手い。その眼に見つめられると俺は自分をさらけ出してしまう。
遊郭に来る客など皆同じだと思っていた、彼らは本当の恋などしに来たのではない。恋の演技をしに来たのだと。好いた振り、惚れた振り、妬いた振り。そしてそれは遊女も同じ。次は笑ってみせようか、泣いてみせようか。女の一挙一動に男はいちいち慌ててみせるのだ。

だが彼は一風変わっていた。
飄々とした態度、端正な顔立ち。彼の前では演技は意味を為さぬ。彼が俺を選んだのは意外の一言に尽きるが、それでも俺は確かにこのひとに惹かれていた。彼の前では何を話せば良いか分からない。彼も多弁な方ではない。俺達の間には沈黙が落ちることもしばしばあったが、彼はそれを苦痛とは思っていないようだった。俺ばかり顔を赤らめたり、やたらとドキドキしたりしているのだ。

「ここいらはあまり雪が降らないね」
「はい」
「白い世界が懐かしいかい?」
「時々、寂しくなります」

そう答えると、彼はまた微笑んだ。


「私の生まれ故郷もね、北の方なんだよ。いつかお前を連れて行ってやりたい…いや、連れて帰りたいと言った方が良いかな」

「喜、八郎さん」

俺は一瞬その意味を理解出来ず、間を置いて顔を上げた。
俺ばかり、じゃなかったのか。夢みたいだ。夢みたいだ。
彼は変わらずただ優しい眼でこちらを見ていた。

「返事は催促しない。お前の気持ちが決まった時で良いよ」

彼の白くて柔らかい、女と大差ない綺麗な手が俺の手をそっと包んだ。泣きたくなるくらい温かかった。
返事など決まっている、この温かさをもう一瞬たりとも逃したくはないのだから。

頷く前に脳裏を過ぎったのは、この手と正反対な冷たくて節くれだった、俺をここに連れて来た男の手だった。