刃の行く先
留三郎は、数日前に買ったっきり一度も使っていない小刀を手の中でもてあそんでいた。彼は簪職人に相応しい、恵まれた器用な指先を持っていたが小刀を購入した目的はその指先を活かす為ではない。器用でなくても出来ること、殺したいほど憎い恋仇の心臓にその刃先を突き立てる為に買ったのだ。
しかし憎いと思う感情が薄まった訳ではなく寧ろ益々強くなる一方なのに、彼は一向に行動に移そうとはしなかった。
(滝はね、潮江様に身請けして頂くことになったんですよ)
頭の中をぐるぐる渦巻くひどい言葉。
あの男、滝に何の興味もなかったくせに俺への当て付けで滝を奪ったのだ。ああ、なんて憎らしい、殺してやりたい。お前は金で女を奪ったが、俺はお前がいくら金を積んだってお前を許しはしない。俺から命は買えないと思い知るがいい。
しかしそう激情を募らせる一方で、冷静な方の自分は怯えているのだ。
あいつを殺したとてどうする。確かに身請け云々の話じゃなくなるだろうが、だからと言ってお前が滝を身請け出来るはずもないぞ。お前は罪人になる、投獄される、もしかしたら死罪だ。運よくそれを免れたって一生お天道様の下を歩けない人生が待っているに決まってる。そんなお前を、滝が待っていてくれるとは、側にいてくれる保証はどこにもないぞ。
そう、その通りだ。それに滝が万一俺の側についてくれたとして、罪人の妻だなんて肩身の狭い思いをさせるのはあまりにも可哀相じゃないか。それくらいならもういっそあいつに嫁ぎ不自由ない暮らしをした方が幸せじゃないのか。遊郭にいるのだ、もともと幸せな出自ではないだろう。
そう思いながら、それを想像すると腹の底に黒い感情が煮立つのを留三郎は感じていた。思わず指先が白くなるほど柄を握り締める。耐えられる訳がない。誰があいつに屈するものか。やはり殺してやる。しかし決心するとまた臆病な自分が出て来て、いつまでも堂々巡りなのだ。
もういっそ滝があの男を殺してくれればいいのに、と思った。
俺なら滝をずっと待っている。彼女がどんなに歳をとり皺が増えようと、肩身の狭い思いをしようと、ずっと彼女を愛していられる。
そこまで考えて、今までの思考が全て彼女を逃げ道に使っていることに気付き、留三郎は心底情けなくなって低く呻いた。
もういっそこの刃先を自分の心臓に向けた方が早いのではないかと思う。しかしそれではきっと滝が悲しむだろう、とまた思考は原点に戻るのだ。
嗚呼。
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