青い亀裂
何だ、こんなに簡単なことだったのかと潮江は思った。
こいつとはどうやっても馬が合わないのだ、そういう人間が世の中にはたいてい何人かいて、それがたまたまこんなに近くにいるから会う度に大喧嘩するのだ。嫌いな人間に殴られた怒りや憎しみは普通の比ではない。何倍にもして返し、相手を叩きのめしてやらなくては気が済まない。食満がごく普通の女であれば潮江とて手加減もしただろうが、彼女は幸か不幸か忍であった。男の剛に対して女は柔である。彼女は強い女だった。潮江が彼女に対して認めるのはそこだけだった。強くなければ喧嘩の相手は務まらないのだから。
しかしその彼女は今自分の下で組み伏せられ、脱出しようと必死にもがいている。その努力を嘲笑うように潮江は彼女を掴む腕に力を込めた。
簡単なことだ。
最初からこうすれば良かったのだ。
何故気付かなかったのだろう、女は押し倒した時一番弱くなるという事を知っていたはずだったのに。こいつを女だと認識していなかったのだろうかと潮江は口元を歪めた。まぁこいつだって自分を女と認識していたかどうか怪しいものだ、何せ俺に喧嘩を売ってくるぐらいなのだから。
やめろと色気なく喚くうるさい口を黙らせ、胸元を開けるとたくさんの傷痕があった。きっとこのうちのいくつかは自分が残した傷痕なのだろうと思うと、優越感が背筋を上る。唐突に、この傷だらけの身体をきれいだと思った。きれいと言えば語弊があるかもしれない。こんな傷だらけの身体がきれいな訳がない。しかしどうしようもなく自分好みであると感じた。こいつの身体を自分だけのものにしたいと思った。さっき殴った血の滲む口元にキスをしたいと思った。
真新しい、先程自分がつけたばかりの青痣をそっとなぞると彼女はびくりと身体を強張らせる。
さっきまでは手酷く扱ってやろうと思っていたが、死ぬほど優しく抱いてやることにした。だってほら、こいつの表側はもうボロボロなのだから。中には出さない、お前が俺の子を孕むなんて寒気がすると言ってやれば、彼女はのろのろと潮江を見上げ、叫びすぎて掠れた声でこちらの台詞だと呟いたがそれにはもう何の憎しみも怒りも篭っていないのであった。
次の日、彼女は廊下で潮江を見つけた瞬間怯えた表情をし、すぐに目を逸らすとさっきの自分を恥じるように睨みつけたがもうそこには以前のような熱はなく、ただ冷え冷えとした硝子球が眼窩に納まっているだけであった。潮江が近付くと彼女は目に見えて硬直した。それを見て、今まで顔を見るのも嫌だった女を潮江は急に愛しいと感じた。抱きしめてやってもいいとさえ思えた。
ああ、もっと早くこうしていれば良かったのに。
食満と一緒に歩いていた伊作が、不審そうに彼女と潮江を見遣る。
伊作の刺すような視線を背中に感じながら、潮江は、食満は伊作に昨日のことを話すだろうかと考えた。
いや、きっと話さないだろう、プライドの高い女だから。
そう思うと彼女が一層愛しくなった。
.