冷めすぎたスープ
俺は人より自分が不幸であることを知っていた、でもそれが自分にとっての普通であるから、自分が特に不幸だとは思わなかった。下を見ればいくらでも恵まれない境遇の人がいるものだし、俺は高校にも通えているのだからどちらかというと幸せな方だ。
しかしやっぱり他人が幸せそうに家族の話をしていたり、遊戯のお袋さんがいらっしゃいとにっこり笑い美味しいおやつを出してくれたりすると、心が痛まなくもない。人間というのは羨む心が先に立つ生き物なのだろうか。俺はそれよりもまず温かい彼らに感謝し、嬉しいと思うべきなのに。何より大切な親友が幸せだというのに、それに嫉妬してしまう自分がとても嫌いだ。
でも相手が世界に進出する大企業の社長とくれば、もう嫉妬したところで無駄だろう。する余地もない。
長い、ながあいテーブルの端と端で向かい合って俺と社長さんは食事をしていた。いや、正確には食事は始まっていない。運ばれたスープにはお互い一口も手をつけていないからだ。あいつが何故食事を始めないのかは知らないが、俺はいくら腹が減っているからといってあいつから施しを受ける気はさらさらなかった。大体、俺はテーブルマナーなんて全然知らない。何か間違えれば鼻で笑われるに決まっている。
「どうした、庶民には高級な料理は逆に口に合わないのか?」
「…俺、お前に貸しなんか作りたくないんだけど」
「恩を売ろうなどとは思ってないぞ。給料日前で腹を空かせているだろう哀れなお前に餌を恵んでやろうと思っただけだ」
「馬鹿にしたいだけかよ」
いらねえよこんなもん!とちゃぶ台返しさながらにあいつに皿を投げ付けてやりたかったが、テーブルクロスがあまりにも白いのと皿が高そうなのとあいつが遠いのとで出来なかった。
「別に馬鹿にしているつもりはないが。ただ負け犬だ凡骨だと散々馬鹿にしてきたが、お前もよく考えれば恵まれない人生を送って来たのだ。そんなお前を少しでも満たす手っ取り早い方法が食事だろう。だからお前をここに呼んだ。何か不都合があるか?」
「お前が無償の親切なんて、胡散臭すぎて信用出来るわけないだろ」
「フン、騙されやすい単純な脳みその癖にこういう時だけ疑うのか」
「お前だから疑うんだよ!」
俺は今度は呆れ返り怒る気も失せた。こいつは全然分かっていないんだ。なにもこんな豪勢な食事じゃなくて、小銭をかき集めて買うコンビニのパンでいいんだ。友達が少ない小遣いの中からジュースを奢ってくれるから嬉しいんだ。俺に相応しくないものをご馳走されても、気が引けるだけだ。勿論あいつにとってはこれが普通なんだから仕方のないことだろうとは思う。だが本当に純粋な親切だとしても、俺はそれを受け取る訳にはいかない。俺は同じだけの親切をあいつに返せないからだ。
返せないのなら、それは受け取るべきではないのだ。きっと。
「それに、俺、自分のこと可哀相とか思ったことねえから」
(まだ小さいのに、お母さんがいなくなって可哀相ねぇ)
昔から、近所のおばさんに、学校の先生に、友達のお母さんに、言われ続けて来た言葉。その言葉のあとにはいつも決まって「しっかりしてて偉いわねぇ」などと続くのだけど、俺は全然嬉しくなかった。友達の、自分を見る目が少し複雑になった。そんなことを言われたら、自分を可哀相だと思ってしまう。やめて欲しい。俺は全然可哀相なんかじゃないから。俺は幸せだから。
海馬は何も言わなかった。
冷えきったスープが、俺と海馬の間に静かな沈黙を落としていた。